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すきなことをすきなだけ

続・みなさんの担当論を聞かせてください

先日書いた「担当」についての記事に対して、反応をいただけたので追記します。

言及の通知がきた方*1のブログを拝見したので、そのことについて少し触れたいと思います。

ちなみに誤解を生んでしまっていたらいやなので言いますが、わたしは担当制度が嫌いなわけではありません。担当がいたことも担降りの経験もあります。「担当」が特別なものだとおもっているからこそ、今現在すきで応援したい子が増えてしまって困っている!みんな担当にしてしまいたい!というずるいジャニヲタのひとりごとだと思って読んでいただけると幸いです…。

 

 

わたしにとって担当は「いちばん応援したい人」です。好きなひとや応援したいひとはたくさんいるけど、わたしにとっての「いちばん」はひとりだけ。オンリーワンでナンバーワンな存在を担当という言葉に置き換えています。

わたしの思う担当は、好きな度合いが変化していってもずっと好きでいる相手なのではないかと思う。そしてこの相手にならお金を惜しみなく出せると思うのが担当ではないかと思う。わたしは担当以外にお金は極力出さないので。

 

「担当」=いちばん好きな子という意味で今は使われているけれど、上記のような由来から、私にとって「担当」=その子の成長を見届けたい・一緒にデビューっていう目標に向かって頑張る(=頑張ってる担当にお金を落としまくる・現場通う的な)的な感じですかね。

「この子の成長を見守っていきたい!」っていう子「だけ」はいつも「ひとり」だけです。だから「担降り」も…きすまいの誰かが昔言ってましたがw「もうこの子は私が見守っていなくてももう大丈夫」っていう心境に陥るというのが1番近いですかねー…いや、でも「もう良いや追ってても楽しくない!!」っていうのも近いwww

中学生のときから今現在までずっと芸人さんのファンなので、芸能ジャンルを見るときの視点は全てお笑いがベースになっています。そしてジャニーズにおける担当制度ってお笑いではむしろよく思われないものなんですよね。好きなコンビやトリオがいても、その中で特定の誰かに焦点を絞るのはよくないという風潮がファンの中でありますし、人によってはそんな考え方すら頭にない。

私はミーハーです。そうであるからそこJUMPにはまりました。なので誰か担当を決めてしまっては、自分はミーハーでなくなってしまう。ここまで来たらとことんミーハーになってやる。そう思い、私は全員が映っているプロマイドを購入しました。

そんなわけで私がこの人の担当になりたい!と思う理由は、(私の)世界の中心で(大きな存在となり四六時中も)愛を叫ぶようになったら。

私にとっての担当は、勉強や仕事を頑張る糧であり、いなくなったら困る人。そのくらい大切な存在。

私にとって担当は大切な存在でいないと困るけど、いすぎて困ることはないと思う。

「Hey!Say!JUMPの有岡くん、伊野尾くん」ではなく、「Hey!Say!JUMPでは有岡くん、伊野尾くん」のスタンスで行こうと思っています。
つまりは「担当」になりたくないのです。 なぜなら全力でHey!Say!JUMPの箱推しだからです。

わたしにとって担当とは、前へ前へと走り続ける青春そのもの。
彼を見ると、彼の声を聴くと、嬉しいのと同じくらい、ぎゅっと切なくなる。
それがわたしにとっての担当です。

担降りした人は言う。「嫌いになったわけじゃない」。だからそれは正しいのだ。変わったのは担当じゃない。担当していた自分だ。

 

同い年で頑張るアイドルと一緒に、年を重ねていけたらいいな。

うーん、これって戦友みたいな感覚なのかな。細く長くゆる〜っと大倉を見ていたいというのが、今のスタンス。関ジャニ∞が、そして大倉がどんなアイドルになるのか、どこまで行くのかを見届けたい。

「見届ける」が今の大倉担としての担当論。というかスタンス。多分。

 「担当」するというのは私にとって恋愛と同じ、と言ったら分かりやすいのかもしれません。恋愛で同時に2人以上好きになったら結構悩める問題だし、私は恋愛において惚れっぽいタイプではないので、どうしようもなく心を動かされて、好きで好きでたまらない相手というのは、そんなに何人もいないのです。

恋愛にたとえて、現担当が「ずっと見ていたい、全てを知りたいと思うような恋する相手」とするなら、元担当は「安心して好きでいられる家族」のようなものだから。かな。  

私は、担当は目線にすぎないと思っている。
グループを誰目線で見たら、誰を主人公にしたら面白いか。

だから時々、「担当にしたくなる人」が現れる。
この人目線で見るのも面白そう、この人を主人公にしたい…

「まだ自担に泣ける」のは、まだ山田くんという作品を楽しめるということで、そう思う自分はもうしばらく山田担でいるということなのだ。

 前回の記事で、渡辺くんはわたしの心に「カチッとはまる」といった表現をしました。「正しい音がする」と。なぜ、という問いの答えになっているかはわからないけれど、他の誰でもない渡辺くんのピースだけがわたしの心にはまったからです。

例えば心に2つ以上ピースがはまることも、はたまたピースが今までみたいにカチッとはまらなくなることもどれも正しいことだと思います。だってピースの形が違うように、心の形も違うから。心の形はずっと同じというわけにはいかないから。

もう一つ思うことは、お気に入りのこには笑っている顔を見せてほしいと思うけれど、担当には笑っていてほしい。これがわたしの担当ではないひとと担当の違い、かな。

 私はふうまくんを通してふうまくんを主人公にしてセクゾンを見たいんだよね。 

だから担当が複数人いても自分にとっては違和感はない、だって違う物語見てるんだから主人公違くたって問題ない。

ステージに彼が立てば、それがどんなに端であれ後ろであれ暗峠であれ私の目は彼を追い掛けます。私の意思で阿部くんの姿を追い掛けています。私における担当とはそれなんです。「自分の世界(視界)の中心に置きたい人」。

私にとって阿部くん(担当している人)は、”どこにいっても幸せであって欲しい”、そんな人です。

担当=好きというシンプルな論を基に言えば、私にとってKinKiを好きでいることはもはや生活の一部である。出演番組を録画し、掲載雑誌を買い、冬が近付けば自ずとそわそわし出すのは、毎日歯を磨くのと同じくらい日常に組み込まれている。ということは私の中で担当=日常なのかもしれないと思いつつ、もっとしっくりくる言葉がありそうな気がしている。

私にとって担当とは端的にいうと「何事においても最優先したい人」です。

 

わたしの中での「担当」の定義は、一言で表現すると「トップアイドルにしてあげたい人」が1番しっくり来ます。

だから「担当とは?」と聞かれたら、「どうしても見ていたくて、不安や不満を持つこともあるけれどついつい見てしまう人」と答えます。

 

ひとことで「担当」といっても本当にいろいろな意味合いがありますね。いろいろな方のブログを拝見して改めて思いました。たくさんの担当論を読んでみて「この方の考え方だとこの子が担当だ。でもあの方の考え方だとあの子だ。」と結局わからなくなってしまいました…。でもやっと答えが見えたような気もしました。ブログやTwitterで担当を宣言する予定もないし、結局DDはやめられないし、いままでと何か変わるわけではないです。なんとなく、担当がいるけど担当にしたいくらい好きな子がいる、っていうのが今の状況にいちばん近いのかもしれないです。結局ずるいジャニヲタですね…。

ただ他の方が書いていたように、ジャニヲタなんて所詮ただの趣味。人のことを気にして応援するなんてばからしい。わたしは今日もかわいい男の子たちを全力で応援するだけです!たくさんの担当論を読むことが出来て楽しかったです。改めてブログの魅力を感じました。そしてみなさまの担当への愛を感じました。ありがとうございました。

 

最後に、前回の記事について1つ訂正をさせてください…。

元担のことを降りた瞬間にけなすというか、興味がなくなったっていうのを言葉にしてだすのはすごく悲しいことだなーと担降りする人を見るたびに思う。

前回のこの一文ですが、決して「担降り」という行為に対して悲しいという感情を持つわけではありません。私自身「担降り」の経験はあります。ただ担降りした後も「元担」のことは好きなままですし、応援する熱量は変わったものの応援していることには変わりないのです。わたしが悲しいと思うのは降りた途端にSNSなどを使ってあからさまに貶す行為に対してです。元担に興味がなくなることも嫌いになってしまうこともしかたないことですが、元担がアイドルである以上必ずどこかにファンがいます。それなのにあえて嫌いになった経緯を書き貶す、ということに悲しいという感情が生まれたので書いてしまいました。文章がへたくそで誤解を生んでしまったようで失礼いたしました。

*1:リンク貼ってくださった方